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穢多の職業と発生史

身分は中世以降徐々に形成されたもので、制度的階級としては江戸幕府のもとで確立した。

タカを使って鳥を捕らえることは仁徳天皇の代からあり、また、大宝令官制に主鷹司の規定があり、これに付随する餌取の由来もまた古く、屠る者がこれに従事した。一方、『延喜式』には猪鹿の肉を天皇に供する規定があったが、仏教の殺生禁止の決まりから肉食を穢れたものと見なす風がひろまり、屠者を蔑視する風もひろまった。彼らは京都鴨川河原に小屋住まいをし、都の民のために賤業に従事した。いわゆる河原者である。下鴨神社が河原の近くにあったので、その穢れのおよぶことをさけるために『延喜式』には付近に濫僧屠者の居住することを禁じた。濫僧とは、非人法師で、国司のきびしい誅求にたえかね、地方民が出家して公民籍から離脱したものである。三善清行は「今天下の民三分の二は禿首の徒なり」と述べた(意見封事)ほどで、その一部が京都に来て、屠者とともに河原者になった。当時は両者の区別があったが、のちに同一視され、餌取法師、エタとよばれた。その職業には都市清掃もあり、浄人(きよめ)ともよばれた。『塵袋』には、キヨメをエタといい、もとは餌取で濫僧ともよばれ、旃陀羅のことであるとあり、『壒囊鈔』には、河原者をエッタというとある。彼らはまたその居住地から、坂の者、散所の者ともよばれた。なかでも京都の清水坂の坂の者が有名であった。清水坂の坂の者は祇園感受院に属して犬神人とよばれ、延喜寺僧兵出兵のさいなどその先手をつとめた。各部落には長がいて、その村落の警護にあたり住民から報酬を受けた。これを長吏法師といった。長吏にはなわばりがあり、寛元年間、清水坂の長吏と奈良坂の長吏とがいさかいを起こしたことがある。

江戸時代には、斃牛馬の処理と獣皮の加工、また革製品の製造販売などの皮革関係の仕事、刑吏、捕吏、番太、山番、水番などの下級警察官的仕事、祭礼などでの「清め」役や各種芸能ものの支配、草履作りとその販売、灯心などの専売など、多様な職業を家業として独占していた。また関東では浅草弾左衛門のもとで非人身分を支配していた。一口に穢多身分といっても日本の東西で違いは大きいので注意が必要である。

穢多の原形は奈良時代にはすでに存在していたようで、中世の日本に「穢多」という言葉が既に見られる。この身分の元になったのは、非人のうち斃牛馬の死体の処理に携わっていた職能集団である。この集団は室町時代あたりから差別の対象になっていたのだが、その差別は緩やかであり、しかも戦国時代には皮革上納が軍需産業(皮革は鎧や馬具の主材料)であった事から保護もされた。東日本の大名の中には領国に穢多に相当するものがおらず、軍需生産のために西国から穢多を呼び寄せ、領国に定住させ皮革生産にあたらせた例もみられる。江戸時代になり鎖国体制が確立すると、東南アジアからの皮製品の輸入が途絶え、深刻な皮不足が生じた。このため皮革原料としての斃牛馬は一段と重要になり、斃牛馬処理はきびしく統制されるとともに、各農村に穢多が配置されて皮革原料の獲得に当たることになった。


『ウィキペディア(Wikipedia)』引用

穢多の原形は奈良時代にはすでに存在していたようです。

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2009年7月24日 19:20に投稿されたエントリーのページです。

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